護国山 安寧寺
安寧寺の創建は、室町時代で、元護国庵と称されていたが、安土・桃山時代に
清庵宗徹和尚入山し安寧寺と改称し臨済宗妙心寺派となりました。
高僧岐阜瑞龍寺大用弘照禅師に仕え、厳しい修行の後その奥義を極めた高僧です。
当寺に住職となってより教化に専念。
広く住民の帰依を受け、徳望四方に伝わり寺門も次第に興隆した。
当時、曳馬城主德川家康がその徳を慕い親交を重ね、禅門の指導のみならず兵法
易学についても学んだといわれてます。
家康三方ヶ原の合戦で敗れ、三河に落ちる際、間道(音無坂)を経て浜名湖へ
導き、武田勢より逃れさせたとの説もあります。
家康は後年これに報いるため、寺より眺望でき得る限りの田を寺領として与えたと
いわれ、その広さは山崎(浜松市西区雄踏町山崎)より志都呂(浜松市西区志都呂
町)に至る47町歩といわれてます。
また、家康より異母弟(三男)内藤信成の養育を託され厳しく薫陶しました。
信成は成人した後、越後国の村上城に封ぜられました。
後、師は多くの人に推され、京都花園妙心寺の住職になり、慶長6年(1601)9月
14日寂す。
京都の古刹建仁寺の望闕楼は、古くから安寧寺境内にあった山門で、大正12年
(1923)に移建されたものです。
安寧寺本堂に安置されてる、貴重な資料は浜松市西区雄踏町の国指定重要文化財
中村家住宅内に写真で展示されてますので是非、見て下さい!
湖西市の皆さん、中村家住宅と鷲津の妙心寺の鬼瓦の製作者が同一人物である事、
ここで判明できますぞ!