おこちゃ屋敷

鈴木@SHOPS案内人

2014年01月12日 20:00




徳川家康の正妻を築山御前と言い、岡崎城内に壮麗な御殿を新築して
「築山御殿」と呼び、この御殿に住んでいた。

築山御殿には多数の女性が、召使いとして仕えていたが、その中に
お万という女があった。

お万の方の役目は御湯殿番で、主人の築山御前や、時折「御成り」
のある家康の入浴の時、身の廻りの世話をする役目であった。

侍女お万の出身は、三河池鯉鮒=ちりふ(現在の知立)の池鯉鮒大明神
神官氷見淡路守吉英の娘で、家系の正しい生まれであった。

当時はこのことが、身分の低い側近に仕える場合の第一条件であった
上に、お万は絶世の美女であり、しかも気立ても優しく、更に利発で
あったから、ひと目で家康に見染められ、いつか懐妊の身となっていた。

このことが、侍女たちの間で目に付かぬ筈はなく、やがて主人の築山御前
の耳に入った。

築山は今川義元の重臣関口備中守義弘の娘で、瀬名姫と呼ばれていたが、
家康の妻となったのは弘治三年(1577)主君義元の命令であり、当時家康は
まだ改名前の松平元康で、身分は事実上の人質、年齢は元康十六歳、
瀬名姫十五歳の若さであったから、関口家にとっては望ましい結婚では
なかった。

その上、御前はもともと気位が高く、勝気な女性で、主君義元公の御声が
かりの結婚を誇りとし、夫の元康さえ、時には見下す傾向すら有ったと
言われる。

この様な築山御前であったから、お万が勤め中であり乍妊娠し、しかも
相手の男性が自分の夫であるとひどく立腹し、嫉妬の心が炎のように燃え
さかった。

当時は戦乱の世で、武士はいつ戦場で討死するかも知れず、特に武将は
家門を保つために、側妾を置くことが、公然と認められた時代であり、
又一般に早婚であった。

女性として、夫が側室を置くことを喜ぶ者は無い。
然し、時代の通念や風習に逆らって無闇に怒り憎しみ、嫉妬の余りに無力
のお万を縛って散々に打ち据え、そればかりでなく、庭の立ち木に繋いで
夜露に曝すなどの虐待まで加えては、もはや狂乱と言うのに近く、築山御
前のこの様な激しい気性が、後に身を滅ぼし、最愛の子信康をも自殺に導
く悲運の根元であることに気付かなかったのは致し方ないことと言えよう。

この有様を見聞し、放置しては置けないと決意したのは、家康の側近の本
多作左衛門重次で、一夜御殿の奥庭に忍び込み、お万のをさらって逃れ出た。

そしてかねての計画で、お万を駕篭にのせ、知人の豊田六郎左衛門の家へ
連れて行った。

六郎左衛門は遠州敷知郡小知波村(現在の湖西市太田)に住む郷士で、
元来松平家に心を寄せ、作左衛門若年からの知人であった。

縁とは不思議なもので、家康の生母「於大の方」の義弟に当たる水野惣兵
衛忠重も、六郎左衛門とは親密な知人関係にあり、惣兵衛まだ小身の頃、
しばしば兵糧や金銭の面倒を受けていた。

この様な松平家との深い間柄から、作左衛門みずから依頼のお万の世話を
六郎左衛門がすぐさま快諾したことは言う迄もないことであった。

豊田家では早速広い屋敷内に、相応の居宅を新築し、こうして初めて、
お万にとって心安らかな日々を送ることができた。

然し、お万が豊田家に滞在したのは、僅かに四十余日に過ぎず、再度作左
衛門のはからいで、小舟で浜名湖を渡り、湖水の東岸宇布見の中村源左衛
門方
へ移った。

豊田家でのお万の滞在が、何故これほど短かったかは明らかでないが、恐ら
くは、築山御前も、突如姿を消したお万の行方を突きとめようと、人を八方
に散らして探索し、漸くその所在を知り、或いは刺客を差し向けようと計画
したのかも知れず、それ程までの深い怨念が有ったかどうかはわからないが、
何喰わぬ顔で岡崎城へ出仕していた作左衛門には、築山御前の計画を察知
し得たのであろう。

湖西から更に湖東へ逃れたお万は、やがて中村家で男の子を生み落とした。

幼名を於義丸と呼び、家康公の二男であり、後年の中納言越前宰相結城秀
康公
で、名門結城家を継ぎ、結城秀康と名乗って、越前福井藩六十
万石の太守となった。

秀康の秀は、太閤秀吉から賜った秀、康は実父家康の康であるが、それは
後年のことであり、秀康公の生誕は天正二年(1574)二月八日であった。

家康の長男は正妻築山御前の生んだ信康、二男は側室お万の方を実母と
る秀康である。

お万の方の別名を「小督=こごう」とも呼んだが、家康平素の呼び名は
「おこちゃ」また「古茶=こちゃ」であった。

この「おこちゃ様」が浜名湖の西岸小知波村の豊田家の逃避中の居宅跡は
今もはっきり残っていて「おこちゃ屋敷」の建札が建てられている。

※参考文献:「湖北・湖西の民話と史話101話より

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