秀康は越前に入国して以来わずか6年後の慶長12年(1607)4月8日
34歳の若さで死去しました。
秀康が越前に入国するまでの27年間こそ波乱に富んだ一生でした。
有為転換は戦国の常とはいいながら、結城秀康の場合も例外ではあ
りませんでした。
雄踏町宇布見にその生を得た秀康の一生をたどってみましょう。
秀康は徳川家康の二男として天正2年(1574)2月8日遠江村宇布見の
中村源左衛門の家で生まれ、母は永見吉英の娘で於万の方といいました。
於万は妊娠中家康に嫌われて浜松城を退出、やむなく中村方で家康の
子を生んだものの、とても家康に対面できるような状況ではありませ
んでした。
いわば私生児として忘れられた存在でした。
秀康の幼名は於義丸(おぎまる)といいました。
於義丸が初めて父家康と対面を許されたのは3歳の時でした。
それも尋常の手段ではなく、異母兄の岡崎三郎信康と家康の腹臣本多
作左衛門重次とがプランを練り意表をつく方法で成功したという事です。
天正7年(1579)、彼が6歳の時、異母兄の信康が父の家康から因果を
含められ、21歳で自害した。
このため於義丸は翌年家康の嫡子として認められました。
ところが、天正12年(1586)家康と羽柴秀吉との間に小牧・長久手の戦い
があり、同14年(1586)両者間に和平が成立すると、家康は秀吉に請われ
て、その嫡子於義丸を秀吉の養子としました。
時に、於義丸は12歳でした。
その後、於義丸は名を秀康と改め、秀吉のもとで戦功をたて、官位も進ん
だが、天正18年(1590)小田原の北条氏征伐の後、今度は下総結城城主
結城晴朝の養子に出された。
(
重要文化財中村家住宅)
結城家は藤原秀郷の流れをくむ名門であり、加えて晴朝は名君として知ら
れていましたが、世嗣の男子がなかった。
そこで秀吉は、晴朝の願望により秀康を養子として与え、結城家を相続さ
せました。
慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いがおこると、秀康は下野国小山に兵を
進め、越後の上杉景勝をおさえ、徳川方の戦勝の基因をつくった。
その勲功により、同年12月越前において68万石を与えられ、北ノ庄城主
に取り立てられました。
翌慶長6年(1601)2月秀康は本多富正に命じて藩地につかしめ、自らは
同年5月上旬、伏見を出発して、7月28日初入国した。同年7月、養父結城
晴朝及びその家臣を越前に招き、館及び禄を与えて老後を慰めた。
この時、結城にあった孝顕寺、乗国寺等の幾つかの寺院が北ノ庄に移さ
れた。
秀康が将軍を逸した理由については彼の母於万の方が家康に嫌われたた
めだといわれているが、それよりも大きな原因は、家康・秀康父子の性格
の相違さらに秀康が羽柴(豊臣)秀吉の養子になったことが、致命的な原因
となったようです。
秀康は、豊臣、徳川両家の融和を念願していた。これに反し家康は、一日も
早く豊臣氏を滅ぼし、徳川家の安泰を図ろうと心をくだいていたのである。
したがって家康にとっては、我が子ながら秀康はまことに厄介な存在であっ
たに違いないといわれてます。
慶長9年(1604)秀康は父家康の命によって徳川家に複し、以降松平氏を
称した。
慶長10年(1605)秋、秀康は病にかかったので白山温泉で湯治し、快方に
向かいましたが、慶長12年(1607)病再発、同閏4月8日、34歳でその生涯
を閉じました。
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