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第24回雄踏歌舞伎「万人講」定期公演の様子です)
歌舞伎と歴史の街、雄踏町(ゆうとうちょう)。
初代福井藩主、結城秀康、徳川家康の次男として現在の雄踏町宇布見
(ゆうとうちょううふみ)の重要文化財中村家住宅で、天正2年(1574)
2月8日に生まれながら、小牧・長久手合戦の講和の人質として豊臣秀吉
の養子となり、その後結城晴朝の養子として結城城十万一千石を継ぎま
した。
関ヶ原合戦後はその功により、越前国六十八万石を拝領して、初代福井
藩主となりました。
戦国期の武将、後の初代福井藩祖、結城秀康生誕の地が雄踏町です。
来月、2月8日は生誕の日です。
この機会にあらためて、徳川家康と深い関わりのある、中村家の歴史に
触れてみませんか。
永禄11年(1568)に徳川家康が遠江国に入国しょうとしたとき、
中村家に密かに立寄ったということが「由緒書」に書かれてます。
浜名湖渡海の協力を依頼したものと考えられます。
以降家康やその家臣団と親密な関係ができ、天正2年(1574)2月8日
に、家康の側室であるお万の方が、当屋敷で家康の第二子於義丸
(後の結城秀康)を出産してます。
天正18年(1590)徳川家康が関東へ移ったときに、家臣になるよう
懇願されましたが、正吉はお暇を願い、宇布見村に残りました。
(
重要文化財中村家住宅)
江戸時代には庄屋を勤めてましたが、結城秀康を藩祖とする越前福井藩
や美作津山藩(現在の岡山県の一部)から士分格(武士の身分)として
知行を得るとともに、越前松平一門や浜松藩主から、於義丸養育の間と
胞衣塚修繕の名目で金銀が下賜されていました。
また、徳川御三家や老中、大阪城代、京都所司代、越前家一門など諸大
名が東海道を通行する際に、中村家歴代当主が御目見えをしていました。
このように徳川氏との関係で格式が高い家柄であったため、一般の庄屋
とは異なり、浜松城主と単独で拝謁できる独礼庄屋とされてます。
幕末になると、28代貞則(大館)は討幕軍を警固する遠州報国隊の結成に
主要なメンバーの一人として尽力しました。
これは、貞則が、江戸後期の国学者で、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長
平田篤胤とともに国学四大人の1人である平田篤胤の門に入り、勤皇思想
を学んだことが大きな影響を与えてます。
また中村家に関わりのある福違藩や津山藩の動向も影響したと考えられ
ます。
29代正悳(東海)は、賀茂家出身で中村家の養子となりました。
明治8年(1875)に若狭彦神社、同年9年(1878)に砥鹿神社の権宮司を
勤め、同年26年(1893)には息神社の神祠官となって、地域の精神的柱
として住民の尊敬を集め、30代正輔は服部・中村養鼈場(すっぽん養殖)
をはじめ、明治35年(1902)には屋敷北側に宇布見郵便局を開設、郵便
局長になっています。
上の写真は、靖国神社宮司賀茂水穂から、中村家29代正悳(東海)に差
し出されたものです。水穂は正悳の弟にあたります。
賀茂家は、元々雄踏町宇布見の金山神社(現在の金山天神社)の宮司を
勤めており幕末~明治期は中村家との結びつきが強い家柄でした。
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