戦国時代にもあった関所

戦国時代にもあった関所
(雄踏町宇布見在、重要文化財中村家住宅

桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした後、今川家を継いだのは氏真
でした。

彼は、勇敢な武将の父に似ず、貴族的で文化人でしたが、内政にも力
を要れ、社寺領の安堵や各種特権の保護策なども積極的に行いました。

さらに浜名湖の湖上交通についても重要視し、永禄5年(1562)2月、
浜名湖の水運を統括する、宇布見(雄踏町)の中村氏に今切内の通行用
として船二艘を与え、次のような命令を出しました。

戦国時代にもあった関所

それは印判状(関所通行の許可書)を持った人や荷物を運ぶ時は村櫛と
荒井(新居)に寄航する必要はない、諸浦の船を差し止めても船二艘は
陣中の用だから通行しても差し支えがない、また船頭や漕ぎ手の糧米や
荷物には税金をかけないというものでした。

戦国時代にもあった関所

すなわち、中村氏の船二艘分については公用船として今川氏の印判状が
あればいつでも自由に航行できるという特権を与えたのです。

ここで注目すべきことは、村櫛と新居に番所があり、通行する船から積荷
に応じて関銭を徴収する関所があったのではないかということです。

江戸時代のようなものではなく、通行税を徴収する関所です。
さらに永禄6年9月、今川家の家臣中安定安がひ非分を行ってるとして、
宇布見の中村氏の訴えに対し今川氏の家臣養徳院但阿が中安の非を認め、
中村氏に宛てた書状のなかに新居関銭のことが書かれてます。

それによると弘治3年(1557)に、新居関銭については以後50貫目に
定めて上納し、残りは自分のものにしてよい、と決めていたのでした。

戦国時代にもあった関所

少なくとも弘治3年には新居で関銭を徴収していたことがわかり、
その任務と中安定安が行っていたのでしょう。

先の史料と照らし合わせると、関銭は新居の渡船場において徴収されて
いたものと思われます。

戦国時代にもあった関所

渡船場には関銭を徴収する組織があり、十二座と呼ばれてました。
十二座は今川氏からさまざまな権利が与えられ、その代償として収入の
一部を上納していたのです。

そしてこの十二座は、以後の今切渡船の運営に引き継がれることになる
のです。

※参考文献:新居ものがたり歴史100選

雄踏町と新居町は古くから浜名湖の湖上交通の拠点として深い関わりが
あります。

歴史を紐解きながらつなげて行くと南浜名湖東海道巡りも楽しくなります!


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