雄踏生まれの武将 結城秀康(於義丸)

雄踏生まれの武将 結城秀康(於義丸)

天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠州浜松で生まれた。
ただし、当時の家康の居城だった浜松城ではなく、浜松城下の
有富見村(宇布見村)である。

母は三河国知鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘で、家康の側室の
於万の方(長勝院)。

於万は家康の正室・瀬名姫(築山殿)の奥女中を務めていたが、
家康の手が付いて秀康を身籠った。

浜松城内(あるいは岡崎城)で懐妊中に瀬名姫の猛烈な嫉妬にあ
い見かねた家康の家臣、本多重次により城外へと連れ出され、遠
江国産美村(有富見村、現在の浜松市西区雄踏町宇布見)にて
今川家、ついで徳川家で同地代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行
を務めた、源範頼の系譜である中村家16代領主中村正吉の屋敷で天正2年(1574)2月8日辰刻、双子を出産、1人は早世し、もう
1人がのちに秀康になったといわれてます。

雄踏生まれの武将 結城秀康(於義丸)
重要文化財中村家住宅

その後、本多重次らに養育されたが不遇な少年時代を送っている。
家康は秀康のことをなかなか認知しようとはせず、認知させたのは
異母兄である信康で秀康が3歳の時、信康が「父上」という言葉を
覚えさせ、天正4年(1576)、家康の目の前で「父上」と呼ばれては
抱き上げるざるを得なかったといわれ、その時まで秀康に名前は
つけられていなかったので、仕方なく家康は、その場で「於義丸」と
名付け認知したといわれてます。

ちなみに、この名は秀康の顔が「ギギ」という魚に似てたからだと
いわれてます。

現存する同屋敷の敷地(建築物は江戸初期)には、家康お手植え
の松が植えられた「秀康の胞衣塚」が残る。

この縁により、のちの福井藩の歴代藩主は参勤交代の際、中村家
で供応を受ける慣例が続いた。


南浜名湖は、アソビのベースキャンプだ!
We are HAMANAKO-LAKERS 南浜名湖あそび隊
楽しいアソビの案内人、南浜名湖.comがご案内いたします。





同じカテゴリー(★重要文化財中村家住宅)の記事

 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
雄踏生まれの武将 結城秀康(於義丸)
    コメント(0)