可睡斎と深い縁があった幕末の三舟

可睡斎と深い縁があった幕末の三舟

可睡斎には、高橋泥舟が寄進した清正公の木像と、義弟山岡鉄舟揮毫の「火防惣本殿の書」が
大切に保存されている。

泥舟は、15代将軍徳川慶喜の側近として最も信頼されていた股肱之臣。

鉄舟は、勝海舟の強い推挙で明治天皇の侍従として帝王学の一翼を担った人物である。

回収は慶喜のために、維新後も引き続き尽力、皇居で天皇に慶喜を拝謁させたのも海舟である。

江戸城無血開城の下工作として駿府で西郷隆盛と談判したのは鉄舟だが、最初に依頼したのは
泥舟だった。

可睡斎と深い縁があった幕末の三舟

西郷は鉄舟を「金も要らなきゃ名も要らぬ、命も要らぬ人は始末に負えぬ」と評した。

会見の結果は、可睡斎と縁の深い有栖川宮熾仁大総督に報告してるから、鉄舟の名は宮の脳裏に
強く刻み付けられたに相違ない。

維新後、海舟と鉄舟は明治政府や天皇にお仕えして大活躍したのに対し、泥舟は徳川慶喜に殉じ
て一切世に出なかった。

現藤枝市にある田中城の後始末が一段落すると、慶喜とも距離を置いて会うのを避けた。

「海内無双、技量神技に達した」とまで評された槍さえ捨てたのである。





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