史蹟「太刀洗の池跡」

史蹟「太刀洗の池跡」

家康の家臣が佐鳴湖畔で築山御前の生命を断った(1579年、御前38歳)とき、その血
がついた太刀を洗った池の跡。

築山御前が切られた際、その刀の血を洗ったのが「太刀洗の池」、亡くなった場所は
富塚御前谷と呼ばれています。

往時には史跡碑の南側に池があったのだとか。

築山御前は、若き家康が人質となっていた今川義元の姪。

長男・松平信康の正室である徳姫は、その今川義元を桶狭間で討ち果たした織田信長
の娘です。

史蹟「太刀洗の池跡」

徳姫が信長に送った築山御前と信康の罪を訴える十二ヶ条の訴状を届けた、家康の忠臣
酒井忠次は、信長に対して申し開きをしなかったことから、築山御前と松平信康の処分
が家康に委ねられます。

苦渋の選択の結果、築山御前は浜松城への入城すら許されずに、天正7年(1579年)
岡崎城から浜松城に向かう途中、小藪村の佐鳴湖畔で家康の家臣・野中重政に殺害
されています。

築山御前38歳の時のことで、家康との間に生まれた信康も9月15日に二俣城に幽閉の後、
切腹しています。

築山御前の遺骸は浜松の西来院に葬られたほか、築山御前の首は、織田家に首実検の
ために送られた後、石川数正によって祐傳寺(愛知県岡崎市)に葬られ、その後八柱
神社に改葬されています。

史蹟「太刀洗の池跡」

築山御前と松平信康が武田に内通したとは考えづらいことから、冤罪であったことは
ほぼ確実で、徳姫と築山御前が不仲だった、あるいは家康と信康の不仲説、酒井忠次
と信康の不仲説など、諸説あって真相は定かでありません。

以前は、少し離れた浜松医療センターに史蹟「大刀洗の池跡」が建立されてましたが、
建築工事も終わり、新たに医療センター正面に建立されました。


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