2018年03月29日
獄門畷

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州
侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで
戦いました。
堀川城跡は、ここから南へ600m程にあります。
永禄12年(1569)3月27日、堀川城に2000人の男女が立てこもり、3000人の
家康軍に攻められて、落城したといわれてます。
大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りしたと」あります。
そしてその後に捕らえられた約700人の人々も、同年9月9日にこの付近で首を
打たれ、その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「獄門畷」と言われる
ようになりました。