三河の岡崎城主、松平氏の嫡男として生まれた家康は、子供の頃、父の松平広忠が
庇護を受けていた
今川氏に人質に出され、駿府城の今川義元のもとで元服し、義元の姪の築山殿と
結婚し、長男「信康」と長女「亀姫」をもうけました。
永禄3年(1560年)織田信長が義元を奇襲して討ち取った桶狭間の戦いの際、
家康は、軍の先鋒をつとめていましたが生還し、これを機に岡崎城に帰って城主と
なり、武将として独立します。
永禄5年(1562)に尾張の織田信長と同盟を結ぶと、永禄10年(1567)長男の
信康は信長の娘、徳姫と結婚。
信長という後ろ盾を得て、家康は遠江に侵攻して今川氏を駆逐し、浜松城に移り
ました。
このとき、岡崎城の城代となった跡取りの信康とともに、築山殿は岡崎城に残り
ました。
悲劇が起こったのは、天正7年(1579)でした。
織田信長が、家康に、築山御殿と信康が武田氏に内通しているとして2人の処刑を
要求し、家康が、従ったのです。
そのいきさつには諸説ありますが、徳姫が「姑と夫が武田に通じている」などと
訴えた12ケ条の訴状を父の信長に送り、信長が激昂したといわれています。
信長と家康は同盟関係でしたが、武田信玄亡きあと、破竹の勢いで天下を統一しつ
つあった信長とは、実質的には主従関係にありました。
信長に逆らえば、身が破滅することは目に見えていました。家康にとって、苦渋の
決断でした。
築山殿は、井伊家の血筋を引いていました。今川方に嫁いだ井伊直平(直虎の曾祖
父)の娘が、築山殿の実母といわれています。
正長元年(1428年)に年に開山し、釈迦牟尼仏を本尊とする西来院の墓苑には、
築山殿を祀る月窟廟の他、異父弟、松平源三郎康俊、江戸時代の浜松女流歌人
杉浦真崎、森繁子などの墓があります。
※このお寺のルールは、墓所にお参りの前に本堂の御本尊にお参りしてね!