交通の要所に立場(たてば)あり

交通の要所に立場(たてば)あり

立場は、慶長6年(1601)東海道に宿駅伝馬制度ができた時につくられ、
その場所は、交通の要所とか宿場と宿場の中間付近であった。

そこには宿場と同様に、本陣という公用の宿泊休憩の施設を構え、比較
的身分の高い大名小名のほか、公家等の宿泊休憩の接待に応じ、また事

ある時には、臨時の宿場役所としての役割を持っていた。
鈴木喜兵衛氏宅がその立場本陣を勤めました。

交通の要所に立場(たてば)あり

篠原の立場について、東海道宿村大概帳には、次の様に記されてます。
「此宿(浜松宿)より舞阪宿の間立場壱ヶ所、篠原村地内字之無し、
浜松宿に壱里拾四町程、舞阪宿に壱里拾六町余」篠原の立場は、浜松宿
と舞阪宿のほぼ中間であると共に、掛塚街道小沢渡道への分岐点に位置
していました。

明治元年(1866)に明治天皇が御小休されという記録「御東幸御小休帳」
や文化年間の「御大名様御小休帳」残されてます。

交通の要所に立場(たてば)あり

立場本陣の東筋向いにあたりには、茶屋「浅田屋」がありました。
一般旅行者の為の手引書、浪速講の「全国道中案内記」には、浜松宿と
舞阪宿の間には次の様に書かれてます。

志野原 休 浅田屋善平」。
浅田屋は、全国を旅する一般旅行者が安心して休憩飲食出来る事を保障
された茶屋でした。

茶屋は、江戸時代に客に茶を出して休憩させていた茶店(ちゃみせ)が、
やがて発展して飲食店になりました。

江戸時代の農村は、自給自足の生活であり、現金収入が乏しかった。
その中にあって、茶屋は財力があり、地曳網の網元、船主等もかねていた。
「茶屋地曳」「茶屋船」はその事を物語ってます。
それに由来して、立場から浜へいく道は、「茶屋浜道」といわれ、この辺
りの字名は立場と言います。

※参考文献:篠原文化誌「浜風と街道」


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